江戸時代の徳川家

更新日:3月18日

今日は徳川家についてお話しします。高野山では徳川家と言いますと、徳川家霊台と言って南院さんの、裏側に、家康二代将軍の秀忠が有名です。



屋根の下の彫り物の虎が家康の御霊です。


こちらは、屋根の下の彫刻が、ウサギです。秀忠の御霊になります。家康、秀忠それぞれが生まれ年の干支をかたどっております。

数年前までは、この御霊の前に鍵がかかって中に入れませんでしたが、今は、そば迄行って彫刻も見れますしお参りもできます。お参りするときは、必ず作法に従って、お参りさせていただきますと言ってお参りさてくださいね。

お参りしてください。

現在の南院かある場所には、かつて、大徳院と言うお寺がありました。文禄3年に秀吉の母の、三回忌法要のために高野山を、訪れた家康がこの大徳院に宿泊しております。

後にこの大徳院は、小田原通りに移転して蓮花院と名前が変わっております。蓮花院の本堂には、家康、秀忠の坐像が、[以前は徳川家霊台に安置されていたものです。]祀られ徳川将軍御三家の位牌等が祀られております。

江戸時代の高野山には、学リョ方、行人方、聖方と言う三つのお坊さんのグループがありました。大徳院は、聖方[諸国を巡る高野聖]の中心寺院で、徳川家霊台は、聖方が健立したお寺です。

行人方は、「寺院や寺領の管理など担当」の中心となる興山寺は、現在の金剛峯寺の、西側半分にあったお寺です。


この渡廊下の庭が見え方が興山寺の門があったところです。


この後方に、現在のに山神を祀る社とその前の広場には、かつて東照宮(東照大権現、つまり家康を祭神とする神社)がありました。この東照宮は、明治になって解体され建物の一部は、普賢院の四脚門「重文」や、常喜院の校倉「アゼクラ」移築されて高野山の寺院にあります。


四脚門です。


校倉です。

学リョ方「学問と法会を行う」の中心となる青巌寺の、東半分の場所にありました。【紀伊続風土記】によりますと、江戸時代の本尊は、家康の坐像で、その両脇に、弘法大師、愛染明王の坐像が祀られていたようです。

ここで興味深いのは、秀吉とゆかりの深い青巌寺が、のちに家康を祀るお寺となっていたことです。

秀吉の庇護を受けていた高野山だからこそ、三つの三方を祀る事で徳川家への忠誠を示したものか、徳川家の、権威を示すためにに、高野山に祀らせたものかもしれません。戦国大名の供養塔が林立する奥の院に、家康をはじめ徳川家歴代将軍「家康秀忠、家光」の供養塔がないのは、このような経緯が関係しているだと考えられます。青巌寺本尊とされていた家康像は、現存せず、高野山で、家康の肖像画を、見たことが、ありません。霊宝館に、興山寺の東照宮で祀られていたと言われる家康坐像が、ひっそりと保管されております。時代の移り変わりを、しみじみ感じさせられます。

皆さんも高野山来られたら、その時代の流れを、感じてみてください。興山寺にあった四脚門や校倉も見に行って見てくださいね。

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